2024年12月31日
「佐賀は“賢人の街”だという」(反省会シリーズ③)
こんばんは。何かと忙しく、とうとう年の瀬を迎えた、大晦日に紅白などを聞きながら書くことになりました。
年末まで忙しくもありましたが、部下や同僚、あるいは上司といった周囲の人々の感情の動きを受け止める…
そのような展開が続き、自分自身の器量を試されたような気もします。ひと言でいえば、気疲れしました。
――遅くなりましたが、「5周年反省会シリーズ」の3回目。
シリーズ開始前に語りましたように、私のブログの構成要素は、最近だと大きく分けて3つです。
①テレビ視聴の感想 ②旅日記のような話(佐賀への帰省を語ることが多い) ③歴史を題材とした記事
これに、一番書きたい「幕末佐賀藩の大河ドラマ」のイメージ(本編)があって、大体、私のブログになっています。

――今回は、少し歴史寄りの記事(③)を書きます。
手持ちの英和辞書で、“佐賀市”を意味する「sagacity」という単語を引いてみますと、こんな意味が出てきました。
『聡明さ(wisdom),たしかな判断力;(実際的な)機敏さ.』とあります。
佐賀市の観光パンプレットで見かけた話題と記憶するのですが、あらためて確認すると「おおっ、何かすごい!」という感じがします。
道路の表示などで「佐賀市」の表示が出てきますが、「“賢い!”」という英単語だと感じていただければ、幸いです。

――私は「幕末佐賀藩の大河ドラマが見たい!」と繰り返しますが、
この「佐賀藩出身の“賢人たち”のドラマが見たい」ということなのですね。
なお、確かな話ではありませんが『佐賀の七賢人』という言葉が世に出たのは、昭和50年代と、言われています。
今から半世紀近く前にも「佐賀にも誇れる偉人のおったとよ、語り継がんば」と工夫して、現在まで届くようにつないでくれた人たちがいたということです。
――“当時の先輩たち”のおかげで、私も佐賀を語ることができます。
幕末期、近代的な知識を先取した佐賀藩。名君・鍋島直正公のもと「佐賀が付いた方が勝つ」と評価されるほど存在感を示します。
そして、幕府方か薩長側かどちらに付くかは最後まで読めなかったとも言われ、“肥前の妖怪”などとすっきりしない呼ばれ方もしています。
私の理解では、佐賀の大殿様はどうにか“内戦”を避けたかったのが本意で、非常に残念な気持ちであられたとお察しするわけです。

明治期に入り、佐賀からは新時代の基礎を築いた実務家や技術者が多く出ますが、「七賢人」の活躍にも物語はあるものの、やや派手さがありません。
今後、“大河ドラマ”などで語るには全国的な知名度が課題になるのでしょう。
――現実には、なかなか発揮し難い「聡明さ、たしかな判断力、機敏さ」。
単なる佐賀県の出身者というだけでは、歴史に名を残した“賢人たち”からは程遠く…雑事に振り回されているだけに等しい、私の日常。
働くことに、別の大きな意味を見い出すためにも、このテーマは追い続けていかなければならないのかな、と感じながら今年も暮れていきました。
年明けからは、真面目に“歴史系ブログ”に戻らねば…とか考えていますが、どうなることやら。皆様、良いお年を。新しい年もよろしくお願いします。
年末まで忙しくもありましたが、部下や同僚、あるいは上司といった周囲の人々の感情の動きを受け止める…
そのような展開が続き、自分自身の器量を試されたような気もします。ひと言でいえば、気疲れしました。
――遅くなりましたが、「5周年反省会シリーズ」の3回目。
シリーズ開始前に語りましたように、私のブログの構成要素は、最近だと大きく分けて3つです。
①テレビ視聴の感想 ②旅日記のような話(佐賀への帰省を語ることが多い) ③歴史を題材とした記事
これに、一番書きたい「幕末佐賀藩の大河ドラマ」のイメージ(本編)があって、大体、私のブログになっています。
――今回は、少し歴史寄りの記事(③)を書きます。
手持ちの英和辞書で、“佐賀市”を意味する「sagacity」という単語を引いてみますと、こんな意味が出てきました。
『聡明さ(wisdom),たしかな判断力;(実際的な)機敏さ.』とあります。
佐賀市の観光パンプレットで見かけた話題と記憶するのですが、あらためて確認すると「おおっ、何かすごい!」という感じがします。
道路の表示などで「佐賀市」の表示が出てきますが、「“賢い!”」という英単語だと感じていただければ、幸いです。
――私は「幕末佐賀藩の大河ドラマが見たい!」と繰り返しますが、
この「佐賀藩出身の“賢人たち”のドラマが見たい」ということなのですね。
なお、確かな話ではありませんが『佐賀の七賢人』という言葉が世に出たのは、昭和50年代と、言われています。
今から半世紀近く前にも「佐賀にも誇れる偉人のおったとよ、語り継がんば」と工夫して、現在まで届くようにつないでくれた人たちがいたということです。
――“当時の先輩たち”のおかげで、私も佐賀を語ることができます。
幕末期、近代的な知識を先取した佐賀藩。名君・鍋島直正公のもと「佐賀が付いた方が勝つ」と評価されるほど存在感を示します。
そして、幕府方か薩長側かどちらに付くかは最後まで読めなかったとも言われ、“肥前の妖怪”などとすっきりしない呼ばれ方もしています。
私の理解では、佐賀の大殿様はどうにか“内戦”を避けたかったのが本意で、非常に残念な気持ちであられたとお察しするわけです。
明治期に入り、佐賀からは新時代の基礎を築いた実務家や技術者が多く出ますが、「七賢人」の活躍にも物語はあるものの、やや派手さがありません。
今後、“大河ドラマ”などで語るには全国的な知名度が課題になるのでしょう。
――現実には、なかなか発揮し難い「聡明さ、たしかな判断力、機敏さ」。
単なる佐賀県の出身者というだけでは、歴史に名を残した“賢人たち”からは程遠く…雑事に振り回されているだけに等しい、私の日常。
働くことに、別の大きな意味を見い出すためにも、このテーマは追い続けていかなければならないのかな、と感じながら今年も暮れていきました。
年明けからは、真面目に“歴史系ブログ”に戻らねば…とか考えていますが、どうなることやら。皆様、良いお年を。新しい年もよろしくお願いします。
Posted by SR at 21:25 | Comments(0) | 佐賀への道
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