2020年07月03日
「主に鹿島市民の方を対象にしたつぶやき」
こんばんは。
「幕末佐賀と4つの“口”」をテーマに、県内各地域の方につぶやくシリーズの第3弾。今日は、鹿島市に注目してみます。
そして“薩摩口”とのつながりも語っていきたいと思います。
――佐賀の鹿島と言えば、祐徳稲荷神社や肥前浜宿など、歴史的にも深い“通好み”の観光スポットが多い印象です。
江戸時代に、鹿島を治めていたのは、肥前鹿島藩。
しかし、鹿島藩は、佐賀藩の支藩扱いのため、鹿島市は佐賀藩の領内です。
ここが第1弾の対馬藩田代領(基山町・鳥栖市東部)、第2弾の唐津藩(唐津市)との大きい違いです。
――佐賀藩内には支藩が3つ(小城、蓮池、鹿島)あるうえに、“自治領”(武雄や須古など)が多くあります。
肥前佐賀藩35万7千石!とは言いますが、これは支藩や自治領を合計した石高(こくだか)です。佐賀本藩だけだと、かなり規模が小さいのです。
――長崎警護の負担もあり、経済力が必要な佐賀本藩。支藩(とくに鹿島藩)の吸収合併を試みることも度々…
鹿島支藩の立場からすると、当然“独立”しておきたいわけで、小競り合いがおきます。なにせ“鹿島城”を有する、城持ち大名なのです。
支藩とはいえ、対外的には大名として扱われます。
幕府のお仕事も押し付けられますが、自ら決定できる事柄も多いし、誇りもあるでしょう。

※鹿島城・赤門
――実は“本編”で、鹿島藩の存在が現れた回があります。
佐賀藩の保守派で頭角を現す、家老クラスの重役・原田小四郎。
殿・鍋島直正に、意見する場面があります。
(参照:第10話「蒸気機関」③)
大砲の鋳造に、台場の整備…長崎警護を全力で務めていた佐賀藩。産業の振興には成功しているのですが、なにぶん出費が多いです。
――支藩の鹿島藩の吸収が論じられるほど、佐賀本藩の財政は厳しい。
原田は、新設の理化学研究所である“精錬方”が予算を遣い過ぎている!と指摘します。
「“鹿島支藩”には我慢を強いているのに、そんなにお金を遣っていては説明が付きません!」という内容のセリフ。
武家社会の秩序と筋道を重んじる、保守派の代表・原田に語ってもらいました。
――このように殿・鍋島直正の代でも、吸収合併の騒動がありました。
結局、合併は見送りとなります。
但し、殿・鍋島直正の甥にあたる、幼い鍋島直彬(なおよし)が鹿島藩主に就任します。
この鹿島藩主・直彬(なおよし)さまが、本日の主役。
明治期の話になりますが、テーマで言えば“薩摩口”と関わりのあった人です。

※武家屋敷の街並み
――幕末期には、江藤新平や副島種臣などの“改革派”が佐賀を脱藩し、さまざまな活動を行います。
江藤や副島らは“脱藩”したり、幕府に追われたり、当時では“重罪”にあたる行動をします。しかし、処罰は“謹慎”程度で済んでいます。
どうやら、この寛大な処分には鹿島藩主・鍋島直彬の動きがあったようなのです。
殿・鍋島直正からは、朝廷との交渉役を命ぜられ、直彬は、影に日向に“佐賀の七賢人”を支えます。
――そして、時代は進んで明治へ。鍋島直彬は“鹿島のお殿様”から、初代の“沖縄県令”になります。
江戸時代は“薩摩口”と呼ばれた、琉球王国を介した交易。
実質的に、琉球を支配下においていた“薩摩藩”が仕切るルートです。
清国などと貿易が可能となった薩摩藩は、莫大な富を得ます。
――琉球にとって、薩摩藩との関わりは過酷なものであったと考えられます。その体制の中で権益を獲得した、琉球の士族や商人も…
明治初期。琉球王国は、激動の時代を経て“沖縄”へと変わります。
初代沖縄県令に任じられ、難しい舵取りを迫られたのは、鍋島直彬。
新政府からの強い制約、地元の権力者からの厳しい反発。
まともな県政運営ができる状況ではなかったようです。
――アメリカにも留学して書物を著すなど、開明的な直彬。しかし沖縄では、旧来の制度をベースに物事を進める必要がありました。
それでも鍋島直彬は、鹿島藩で大事にした教育、佐賀本藩が注力していた産業振興を軸と考え、地道な基礎づくりを始めます。
こうして“鹿島の殿様”は、沖縄県政の“船出”の舵取りを務めました。
その後の“沖縄”の礎を築くため、勧学・勧業に注力したのです。
鹿島の幕末も、また“新時代”に続いていたようですね。
「幕末佐賀と4つの“口”」をテーマに、県内各地域の方につぶやくシリーズの第3弾。今日は、鹿島市に注目してみます。
そして“薩摩口”とのつながりも語っていきたいと思います。
――佐賀の鹿島と言えば、祐徳稲荷神社や肥前浜宿など、歴史的にも深い“通好み”の観光スポットが多い印象です。
江戸時代に、鹿島を治めていたのは、肥前鹿島藩。
しかし、鹿島藩は、佐賀藩の支藩扱いのため、鹿島市は佐賀藩の領内です。
ここが第1弾の対馬藩田代領(基山町・鳥栖市東部)、第2弾の唐津藩(唐津市)との大きい違いです。
――佐賀藩内には支藩が3つ(小城、蓮池、鹿島)あるうえに、“自治領”(武雄や須古など)が多くあります。
肥前佐賀藩35万7千石!とは言いますが、これは支藩や自治領を合計した石高(こくだか)です。佐賀本藩だけだと、かなり規模が小さいのです。
――長崎警護の負担もあり、経済力が必要な佐賀本藩。支藩(とくに鹿島藩)の吸収合併を試みることも度々…
鹿島支藩の立場からすると、当然“独立”しておきたいわけで、小競り合いがおきます。なにせ“鹿島城”を有する、城持ち大名なのです。
支藩とはいえ、対外的には大名として扱われます。
幕府のお仕事も押し付けられますが、自ら決定できる事柄も多いし、誇りもあるでしょう。
※鹿島城・赤門
――実は“本編”で、鹿島藩の存在が現れた回があります。
佐賀藩の保守派で頭角を現す、家老クラスの重役・原田小四郎。
殿・鍋島直正に、意見する場面があります。
(参照:
大砲の鋳造に、台場の整備…長崎警護を全力で務めていた佐賀藩。産業の振興には成功しているのですが、なにぶん出費が多いです。
――支藩の鹿島藩の吸収が論じられるほど、佐賀本藩の財政は厳しい。
原田は、新設の理化学研究所である“精錬方”が予算を遣い過ぎている!と指摘します。
「“鹿島支藩”には我慢を強いているのに、そんなにお金を遣っていては説明が付きません!」という内容のセリフ。
武家社会の秩序と筋道を重んじる、保守派の代表・原田に語ってもらいました。
――このように殿・鍋島直正の代でも、吸収合併の騒動がありました。
結局、合併は見送りとなります。
但し、殿・鍋島直正の甥にあたる、幼い鍋島直彬(なおよし)が鹿島藩主に就任します。
この鹿島藩主・直彬(なおよし)さまが、本日の主役。
明治期の話になりますが、テーマで言えば“薩摩口”と関わりのあった人です。
※武家屋敷の街並み
――幕末期には、江藤新平や副島種臣などの“改革派”が佐賀を脱藩し、さまざまな活動を行います。
江藤や副島らは“脱藩”したり、幕府に追われたり、当時では“重罪”にあたる行動をします。しかし、処罰は“謹慎”程度で済んでいます。
どうやら、この寛大な処分には鹿島藩主・鍋島直彬の動きがあったようなのです。
殿・鍋島直正からは、朝廷との交渉役を命ぜられ、直彬は、影に日向に“佐賀の七賢人”を支えます。
――そして、時代は進んで明治へ。鍋島直彬は“鹿島のお殿様”から、初代の“沖縄県令”になります。
江戸時代は“薩摩口”と呼ばれた、琉球王国を介した交易。
実質的に、琉球を支配下においていた“薩摩藩”が仕切るルートです。
清国などと貿易が可能となった薩摩藩は、莫大な富を得ます。
――琉球にとって、薩摩藩との関わりは過酷なものであったと考えられます。その体制の中で権益を獲得した、琉球の士族や商人も…
明治初期。琉球王国は、激動の時代を経て“沖縄”へと変わります。
初代沖縄県令に任じられ、難しい舵取りを迫られたのは、鍋島直彬。
新政府からの強い制約、地元の権力者からの厳しい反発。
まともな県政運営ができる状況ではなかったようです。
――アメリカにも留学して書物を著すなど、開明的な直彬。しかし沖縄では、旧来の制度をベースに物事を進める必要がありました。
それでも鍋島直彬は、鹿島藩で大事にした教育、佐賀本藩が注力していた産業振興を軸と考え、地道な基礎づくりを始めます。
こうして“鹿島の殿様”は、沖縄県政の“船出”の舵取りを務めました。
その後の“沖縄”の礎を築くため、勧学・勧業に注力したのです。
鹿島の幕末も、また“新時代”に続いていたようですね。
Posted by SR at 22:59 | Comments(0) | 各地域の皆様へのつぶやき
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