2022年05月30日
第18話「京都見聞」⑧(真っ直ぐな心で)
こんばんは。前回の続きです。
文久二年(1862年)六月に佐賀を発った、江藤新平。京都に向かう道中では福岡城下に立ち寄り、筑前(福岡)の志士たちの消息を探ろうと決めます。
江藤が訪ねた相手・平野国臣ですが、福岡藩内の牢獄に居たようです。また現在の福岡県朝倉市にあった秋月藩・海賀宮門も姿を消していました。
〔参照(後半):第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)〕
京都では、“寺田屋騒動”についても調査したという江藤。幕末期に佐賀を訪れた、筑前(福岡)の志士たちの足跡も、次第に見えてくることになります。
――情報通の“祇園太郎”が語り出す「怖い話」。
「寺田屋の騒動の事たい。その場に、秋月の者も居った。」
薩摩藩士の同士討ちの事件として知られる“寺田屋騒動”。その場には公家や他藩に仕える尊王活動家も集まっていた。
〔参照(後半):第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)〕
「…秋月の者だと。“海賀”という名ではないか。」
「そうたい。よく知っとるとね。よもや…探しよったか。」
江藤の反応に、祇園太郎の表情が、少し曇ったように見えた。

――万延年間(1860~1861年)からの佐賀では。
長崎警備に注力する佐賀藩。西洋と向き合うことで、陶磁器など貿易に使う物産の開発や海外への販路開拓にも、ますます熱心となっている。
蒸気機関を研究する一方で、水力等を用いた工業の“自動化”も進めていた。
〔参照(後半):第10話「蒸気機関」⑩(佐賀の産業革命)〕
近隣の九州北部の志士たちは、“西洋通”の雄藩・佐賀を味方に引き込む事が力になると考えたか、この時期、次々に“来佐”していた。
彼らが訪ねたのは尊王思想家として著名な、江藤たちの師匠・枝吉神陽。
――その日も、年の頃20代後半の訪問者があった。
「秋月(藩)の海賀宮門と申す。こちらに、枝吉神陽先生は居られるか。」
どこから“義祭同盟”の会合を聞きつけたか、この日も一人の志士が現れた。
「神陽先生の門下で、江藤と申す。用向きを承る。」
佐賀は旅人への規制が厳しい。通常、他藩の者は城下深くには入れず、長崎街道沿いを行き来することになったようだ。
「恐れ入るが、ぜひ神陽先生に、お目通り願いたい。」

――他藩の志士にも、様々な者が居る。
もともと才気が勝り、ピリピリと無愛想なところがある江藤。何がしかの企てがあって近づいてくる“志士”も居るため、多少の警戒感もあった。
ところが、訪ねてきた海賀という男は、江藤を話す値打ちがある人物と見たか、熱っぽく語り始めた。
「私は黒田の家臣で、秋月から来た者だ。」
――秋月藩は、福岡藩の支藩。
福岡藩主・黒田家の分家が治める秋月。海賀は、朝廷を崇敬する志士だが、黒田武士であることは誇りとする様子だ。
「福岡にも志のある者は多く居るが、“国”の動きは芳しくない。」
「黒田のご家中には、勤王への動きが見えぬということか。」
――佐賀藩と交代で、長崎警備を担当する福岡藩。
概ね幕府寄りで慎重な立ち位置だ。そのため、福岡の平野国臣らは、よく藩の役人から追われている。
かくいう海賀も、一時は長州藩(山口)に接触を試みて、幽閉されたらしい。
「…だからこそ、我らのような者が働かねばならぬ。」
「では此度(こたび)は、なにゆえ佐賀に参られたか。」
――問答を続ける、秋月からの来訪者と江藤。
「それは佐賀が動けば、時勢が動くからだ。」
海賀宮門(直求)も若くて、覇気のある印象である。さらに目を輝かせて語る。
「事はそのように、容易ではない。」
江藤は幾分、冷たく言い放った。
幕末期、鍋島直正(閑叟)の統制により、雄藩への道を走ってきた佐賀。
身分を問わない人材の登用には熱心だが、他の雄藩とは違い、下級武士が藩政に影響を及ぼし始める傾向は見られない。
――江藤の才能に、下級役人の日々は見合ってはいなかった。
「だが、私は待っている。佐賀が我らとともに動いてくれる日を。」
言葉遣いはわりと丁寧だが、とても真っ直ぐで熱いところのある男だ。

江藤とて曲がった事は許せぬ、融通の効かない性分である。
こちらも変わり者ではあるが、まっすぐな気性と言える。
「海賀どのだったな。しばし、待たれよ。」
江藤が師匠の許可を得ようと振り向いた、その時。会合に使うお堂の奥から、枝吉神陽の声が響いた。
――「秋月からの客人なれば、通して良いぞ。」
“鐘が響く如し”と喩(たと)えられる、師匠・枝吉神陽の声が続く。
「海賀どのの話を聞こうではないか。江藤も同座してよい。」
「聞いてのとおり、師に尋ねるまでも無かったようだ。」
江藤が状況を伝える。
「いや、江藤さんだったか。貴方とも話がしたい。」
まっすぐな目線で語ると、秋月から来た志士・海賀は、自らの腹をポンポンと軽く叩いた。
「奇妙な事をする。それは何か。」
さほど恰幅(かっぷく)が良いわけでもなく、良い音をたてるために叩くでは無さそうだ。何かの想いを確かめるような所作に江藤が、興味を持って尋ねる。
――秋月の志士・海賀は、苦笑して答えた。
「これは気合いを入れる…まぁ、癖のようなものだ。」
「如何なる想いを込めるか。」
江藤には、単なる癖や習慣では無いと見えるのか、明確に聞こうとする。
「あえて言うなれば“赤心報国”だ。その志は、この肚(はら)に在りと。」
海賀は、言葉にする事ではないと思ったか、少し照れくさそうではあった。
聞いてみれば「偽りの無い心で、国に尽くす気持ちがここにある…」との答えに、江藤は「いや、得心した」と大きく頷(うなず)き、しきりに感心する。
自らの想いを持って進む、秋月の志士の真っ直ぐな心が快い。その一方で、どこか強大な佐賀藩に頼る気持ちがあった、自身を省みていた。
(続く)
文久二年(1862年)六月に佐賀を発った、江藤新平。京都に向かう道中では福岡城下に立ち寄り、筑前(福岡)の志士たちの消息を探ろうと決めます。
江藤が訪ねた相手・平野国臣ですが、福岡藩内の牢獄に居たようです。また現在の福岡県朝倉市にあった秋月藩・海賀宮門も姿を消していました。
〔参照(後半):
京都では、“寺田屋騒動”についても調査したという江藤。幕末期に佐賀を訪れた、筑前(福岡)の志士たちの足跡も、次第に見えてくることになります。
――情報通の“祇園太郎”が語り出す「怖い話」。
「寺田屋の騒動の事たい。その場に、秋月の者も居った。」
薩摩藩士の同士討ちの事件として知られる“寺田屋騒動”。その場には公家や他藩に仕える尊王活動家も集まっていた。
〔参照(後半):
「…秋月の者だと。“海賀”という名ではないか。」
「そうたい。よく知っとるとね。よもや…探しよったか。」
江藤の反応に、祇園太郎の表情が、少し曇ったように見えた。
――万延年間(1860~1861年)からの佐賀では。
長崎警備に注力する佐賀藩。西洋と向き合うことで、陶磁器など貿易に使う物産の開発や海外への販路開拓にも、ますます熱心となっている。
蒸気機関を研究する一方で、水力等を用いた工業の“自動化”も進めていた。
〔参照(後半):
近隣の九州北部の志士たちは、“西洋通”の雄藩・佐賀を味方に引き込む事が力になると考えたか、この時期、次々に“来佐”していた。
彼らが訪ねたのは尊王思想家として著名な、江藤たちの師匠・枝吉神陽。
――その日も、年の頃20代後半の訪問者があった。
「秋月(藩)の海賀宮門と申す。こちらに、枝吉神陽先生は居られるか。」
どこから“義祭同盟”の会合を聞きつけたか、この日も一人の志士が現れた。
「神陽先生の門下で、江藤と申す。用向きを承る。」
佐賀は旅人への規制が厳しい。通常、他藩の者は城下深くには入れず、長崎街道沿いを行き来することになったようだ。
「恐れ入るが、ぜひ神陽先生に、お目通り願いたい。」
――他藩の志士にも、様々な者が居る。
もともと才気が勝り、ピリピリと無愛想なところがある江藤。何がしかの企てがあって近づいてくる“志士”も居るため、多少の警戒感もあった。
ところが、訪ねてきた海賀という男は、江藤を話す値打ちがある人物と見たか、熱っぽく語り始めた。
「私は黒田の家臣で、秋月から来た者だ。」
――秋月藩は、福岡藩の支藩。
福岡藩主・黒田家の分家が治める秋月。海賀は、朝廷を崇敬する志士だが、黒田武士であることは誇りとする様子だ。
「福岡にも志のある者は多く居るが、“国”の動きは芳しくない。」
「黒田のご家中には、勤王への動きが見えぬということか。」
――佐賀藩と交代で、長崎警備を担当する福岡藩。
概ね幕府寄りで慎重な立ち位置だ。そのため、福岡の平野国臣らは、よく藩の役人から追われている。
かくいう海賀も、一時は長州藩(山口)に接触を試みて、幽閉されたらしい。
「…だからこそ、我らのような者が働かねばならぬ。」
「では此度(こたび)は、なにゆえ佐賀に参られたか。」
――問答を続ける、秋月からの来訪者と江藤。
「それは佐賀が動けば、時勢が動くからだ。」
海賀宮門(直求)も若くて、覇気のある印象である。さらに目を輝かせて語る。
「事はそのように、容易ではない。」
江藤は幾分、冷たく言い放った。
幕末期、鍋島直正(閑叟)の統制により、雄藩への道を走ってきた佐賀。
身分を問わない人材の登用には熱心だが、他の雄藩とは違い、下級武士が藩政に影響を及ぼし始める傾向は見られない。
――江藤の才能に、下級役人の日々は見合ってはいなかった。
「だが、私は待っている。佐賀が我らとともに動いてくれる日を。」
言葉遣いはわりと丁寧だが、とても真っ直ぐで熱いところのある男だ。
江藤とて曲がった事は許せぬ、融通の効かない性分である。
こちらも変わり者ではあるが、まっすぐな気性と言える。
「海賀どのだったな。しばし、待たれよ。」
江藤が師匠の許可を得ようと振り向いた、その時。会合に使うお堂の奥から、枝吉神陽の声が響いた。
――「秋月からの客人なれば、通して良いぞ。」
“鐘が響く如し”と喩(たと)えられる、師匠・枝吉神陽の声が続く。
「海賀どのの話を聞こうではないか。江藤も同座してよい。」
「聞いてのとおり、師に尋ねるまでも無かったようだ。」
江藤が状況を伝える。
「いや、江藤さんだったか。貴方とも話がしたい。」
まっすぐな目線で語ると、秋月から来た志士・海賀は、自らの腹をポンポンと軽く叩いた。
「奇妙な事をする。それは何か。」
さほど恰幅(かっぷく)が良いわけでもなく、良い音をたてるために叩くでは無さそうだ。何かの想いを確かめるような所作に江藤が、興味を持って尋ねる。
――秋月の志士・海賀は、苦笑して答えた。
「これは気合いを入れる…まぁ、癖のようなものだ。」
「如何なる想いを込めるか。」
江藤には、単なる癖や習慣では無いと見えるのか、明確に聞こうとする。
「あえて言うなれば“赤心報国”だ。その志は、この肚(はら)に在りと。」
海賀は、言葉にする事ではないと思ったか、少し照れくさそうではあった。
聞いてみれば「偽りの無い心で、国に尽くす気持ちがここにある…」との答えに、江藤は「いや、得心した」と大きく頷(うなず)き、しきりに感心する。
自らの想いを持って進む、秋月の志士の真っ直ぐな心が快い。その一方で、どこか強大な佐賀藩に頼る気持ちがあった、自身を省みていた。
(続く)