2022年05月07日
「幕末!京都事件ファイル③〔後編〕」
こんばんは。
最初から意図したわけではないのですが『幕末!京都事件ファイル』の3部作は、前編・薩摩(鹿児島)、中編・土佐(高知)、後編・長州と関わる展開に。
…とはいえ今回は長州(山口)の尊王攘夷派に大打撃だった出来事の特集。江藤新平の脱藩から2年後、1864年(文久四年・元治元年)夏の事件です。
長州藩で出世し、強い影響力を持つものの、尊攘派の過激な動きとは、一線を画す慎重な態度を取っていたのが、桂小五郎(のちの木戸孝允)。
第18話のカギとなる人物・桂小五郎は、近々“本編”にも登場予定ですので、今回は“新選組”を軸とした話にしています。

――では、「幕末!京都事件ファイル③」。
「③池田屋事件」は新選組の“晴れ舞台”との位置づけが多く見られ、響きは「②寺田屋事件」と似ていますが、よく幕府寄りの視点で描かれる印象です。
発生時期は前回までの①と②の事件の間、1864年(元治元年)旧暦六月。新暦では夏の7月頃。現場は、東海道の終点・三条大橋に近い京の市街地。
この事件では、幕府側の会津藩(福島)配下となった“新選組”が尊王攘夷派を急襲し、その企てを阻止したというのが一般的な筋書き。
肥後熊本藩士・宮部鼎蔵や、長州藩士・吉田稔麿ら有力な志士が新選組との死闘を経て落命します。
この事件により、明治維新の到来時期が数年遅くなったとも、逆に早まったとも…そこは諸説あるようですが、衝撃の事件だったことは確かでしょう。
――2004年大河ドラマ『新選組!』では、
やや記憶頼みですが、以下のような話の流れだったと思います。
市中の取締りを続ける中、尊王攘夷派が京の街に火を放ち、混乱に乗じて帝を長州に連れ去るという、大規模な企てを察知した新選組。
京都では1か月ほど続くという夏の風物詩・祇園祭。お囃子が流れる宵の街。新選組は繁華街の地域を分担し、北上しながら探索にあたります。

捜索を二手に分かれて行う中、先に情報を掴んだのは、新選組局長・近藤勇〔演:香取慎吾〕が率いる一団。
――三条小橋の旅籠「池田屋」に尊攘派が集結。
その一報を受けて、急ぎ池田屋にたどりついたのは、局長の近藤以下わずか数名。少ない手勢ですが「御用改めである!」と乗り込みます。
階段を昇った2階には、抜刀した尊王攘夷の過激派志士が多数待ち構えて…という、新選組ファンが最も盛り上がりそうな場面。
暗闇での熾烈な戦い。急襲を受けた志士たちも猛然と反撃し、数に劣る中、精鋭ぞろいの新選組隊士も苦戦します。
そこで、副長・土方歳三〔演:山本耕史〕の率いる別動隊が「待たせたな。」の一声とともに合流する…と概ね、こんな描き方だったと思います。

――そして“本編”では、新選組は描けるか。
これも、なかなか難しい注文で「幕末佐賀藩の大河ドラマ」は、あまり新選組の出番を作れなさそうです。
例えば、江藤新平が脱藩して京の情勢を探った、文久二年(1862年)時点では新選組(壬生浪士組)は、まだ京都に存在していません。
一方で副島種臣・大隈重信らが脱藩した、幕末も大詰めの時期には、新選組は京で活動していました。
――しかし、幕府側の立場では、
西国の雄藩が次々と“倒幕”寄りとなる中で、佐賀藩(鍋島家)は何とか味方にしておきたかったはず。しかも佐賀藩士はあまり乱暴な手段を用いない傾向。
政治工作を仕掛けて藩に送還されることはありますが、あえて新選組が追いかけ回す必要があるかというと…。
そんな事情で、ほぼ佐賀藩は関わらない見通しですが、“新選組”を描く予定は一応あります。あまり期待せずにお待ちください。

――ここ3回は、GW特別企画をお送りしました。
『幕末!京都事件ファイル』の調査報告として「佐賀藩を語りたい立場」からのまとめに入ります。
佐賀では前藩主・鍋島直正(閑叟)の統率力が効いているのか、今回ご紹介した「幕末京都の“事件現場”」には、配下の佐賀藩士は姿を見せません。
私はこれを「のちに日本近代化の礎になるべき、藩士たちを守りたい」という、直正公から家臣への“親心にも似た愛”の結果なのだと考えております。
〔参照:第15話「江戸動乱」⑪(親心に似たるもの)〕
――この“優等生”ぶりが、佐賀藩の特徴でもあるのですが、
ドラマ的には“見せ場”が作りにくく、「幕末佐賀藩の大河ドラマ」を見たい私にとっては、そのイメージをどう描くか、工夫を要するポイントになっています。
では、なぜ幕末期に京都の「事件現場」に姿を見せなかった肥前佐賀藩が、薩長土肥の一角となり得たか。
そこには、佐賀藩の科学技術と実務能力以外に、もう1つの要因があるように考え始めました。

――“倒幕”運動では影の薄い、佐賀藩。
結局、“鳥羽・伏見の戦い”にも参陣していません。「出遅れた」と評されるように、内戦を避けたかった佐賀藩の立ち位置は、最終局面まで不明確でした。
近代化の進んだ雄藩ながら、積極的に戦わない佐賀。しかし、その中途半端さゆえ、明治初頭に日本を救う役回りがあった…と仮説を立てています。
こうして『事件ファイル』の調査を経て、新たな展開も見えてきましたが、私の探索は長い道のりになりそうです。
最初から意図したわけではないのですが『幕末!京都事件ファイル』の3部作は、前編・薩摩(鹿児島)、中編・土佐(高知)、後編・長州と関わる展開に。
…とはいえ今回は長州(山口)の尊王攘夷派に大打撃だった出来事の特集。江藤新平の脱藩から2年後、1864年(文久四年・元治元年)夏の事件です。
長州藩で出世し、強い影響力を持つものの、尊攘派の過激な動きとは、一線を画す慎重な態度を取っていたのが、桂小五郎(のちの木戸孝允)。
第18話のカギとなる人物・桂小五郎は、近々“本編”にも登場予定ですので、今回は“新選組”を軸とした話にしています。

――では、「幕末!京都事件ファイル③」。
「③池田屋事件」は新選組の“晴れ舞台”との位置づけが多く見られ、響きは「②寺田屋事件」と似ていますが、よく幕府寄りの視点で描かれる印象です。
発生時期は前回までの①と②の事件の間、1864年(元治元年)旧暦六月。新暦では夏の7月頃。現場は、東海道の終点・三条大橋に近い京の市街地。
この事件では、幕府側の会津藩(福島)配下となった“新選組”が尊王攘夷派を急襲し、その企てを阻止したというのが一般的な筋書き。
肥後熊本藩士・宮部鼎蔵や、長州藩士・吉田稔麿ら有力な志士が新選組との死闘を経て落命します。
この事件により、明治維新の到来時期が数年遅くなったとも、逆に早まったとも…そこは諸説あるようですが、衝撃の事件だったことは確かでしょう。
――2004年大河ドラマ『新選組!』では、
やや記憶頼みですが、以下のような話の流れだったと思います。
市中の取締りを続ける中、尊王攘夷派が京の街に火を放ち、混乱に乗じて帝を長州に連れ去るという、大規模な企てを察知した新選組。
京都では1か月ほど続くという夏の風物詩・祇園祭。お囃子が流れる宵の街。新選組は繁華街の地域を分担し、北上しながら探索にあたります。

捜索を二手に分かれて行う中、先に情報を掴んだのは、新選組局長・近藤勇〔演:香取慎吾〕が率いる一団。
――三条小橋の旅籠「池田屋」に尊攘派が集結。
その一報を受けて、急ぎ池田屋にたどりついたのは、局長の近藤以下わずか数名。少ない手勢ですが「御用改めである!」と乗り込みます。
階段を昇った2階には、抜刀した尊王攘夷の過激派志士が多数待ち構えて…という、新選組ファンが最も盛り上がりそうな場面。
暗闇での熾烈な戦い。急襲を受けた志士たちも猛然と反撃し、数に劣る中、精鋭ぞろいの新選組隊士も苦戦します。
そこで、副長・土方歳三〔演:山本耕史〕の率いる別動隊が「待たせたな。」の一声とともに合流する…と概ね、こんな描き方だったと思います。

――そして“本編”では、新選組は描けるか。
これも、なかなか難しい注文で「幕末佐賀藩の大河ドラマ」は、あまり新選組の出番を作れなさそうです。
例えば、江藤新平が脱藩して京の情勢を探った、文久二年(1862年)時点では新選組(壬生浪士組)は、まだ京都に存在していません。
一方で副島種臣・大隈重信らが脱藩した、幕末も大詰めの時期には、新選組は京で活動していました。
――しかし、幕府側の立場では、
西国の雄藩が次々と“倒幕”寄りとなる中で、佐賀藩(鍋島家)は何とか味方にしておきたかったはず。しかも佐賀藩士はあまり乱暴な手段を用いない傾向。
政治工作を仕掛けて藩に送還されることはありますが、あえて新選組が追いかけ回す必要があるかというと…。
そんな事情で、ほぼ佐賀藩は関わらない見通しですが、“新選組”を描く予定は一応あります。あまり期待せずにお待ちください。

――ここ3回は、GW特別企画をお送りしました。
『幕末!京都事件ファイル』の調査報告として「佐賀藩を語りたい立場」からのまとめに入ります。
佐賀では前藩主・鍋島直正(閑叟)の統率力が効いているのか、今回ご紹介した「幕末京都の“事件現場”」には、配下の佐賀藩士は姿を見せません。
私はこれを「のちに日本近代化の礎になるべき、藩士たちを守りたい」という、直正公から家臣への“親心にも似た愛”の結果なのだと考えております。
〔参照:
――この“優等生”ぶりが、佐賀藩の特徴でもあるのですが、
ドラマ的には“見せ場”が作りにくく、「幕末佐賀藩の大河ドラマ」を見たい私にとっては、そのイメージをどう描くか、工夫を要するポイントになっています。
では、なぜ幕末期に京都の「事件現場」に姿を見せなかった肥前佐賀藩が、薩長土肥の一角となり得たか。
そこには、佐賀藩の科学技術と実務能力以外に、もう1つの要因があるように考え始めました。

――“倒幕”運動では影の薄い、佐賀藩。
結局、“鳥羽・伏見の戦い”にも参陣していません。「出遅れた」と評されるように、内戦を避けたかった佐賀藩の立ち位置は、最終局面まで不明確でした。
近代化の進んだ雄藩ながら、積極的に戦わない佐賀。しかし、その中途半端さゆえ、明治初頭に日本を救う役回りがあった…と仮説を立てています。
こうして『事件ファイル』の調査を経て、新たな展開も見えてきましたが、私の探索は長い道のりになりそうです。