2022年02月17日
第17話「佐賀脱藩」㉑(郷里を背に)
こんばんは。
思い入れの強かった“本編”第17話を今回の投稿で、ひとまず書き終えます。親友・中野方蔵が世を去ったことで、佐賀から出る決意を固めた江藤新平。
中野から「兄さん」とも慕われた大木喬任(民平)から資金を借り受け、旅立つ準備を進めます。江藤が佐賀を発ったのは文久二年(1862年)六月。
その前年あたりは、江藤らの師匠・枝吉神陽への面会を求めて、九州北部の各地から志士たちが佐賀に来訪した時期でした。
――“幕府寄り”と見られていた肥前佐賀藩。
朝廷に関わる諸藩の動向について情報が不足する。それを徹底して集めねばならない。江藤は大木に「京の都にて形勢を探る」と脱藩の目的を説明した。
「中野からの文(ふみ)に名があった者に、当たるつもりだ。」
「まずは長州の…、久坂という者か。」
長州(山口)の俊才・久坂玄瑞の名が出る。中野方蔵が送った、江戸からの手紙に度々登場した人物だ。
「久坂どのが、京に居るかはわからぬが、長州には当たらねばなるまい。」
根拠は無いが、次第に自信に満ちあふれた表情となる大木・江藤の二人。

――まるで、傍で親友・中野方蔵が笑っていた青春の日々のようだ。
「では、他国の“有為の者”たちとは、どうつなぎを取る。」
「佐賀を抜ければ、福岡を通る。それゆえ平野さまも尋ねてみるつもりだ。」
江藤は前年の秋、佐賀に来訪した福岡脱藩・平野国臣を話題にした。勤王家として知られた平野は、九州諸藩の志士たちの力を集めようとしていた。
二人は鎌倉期のような時代がかった装束で熱く語る“福岡のさぶらい”・平野を想い出し、少し愉快そうな表情を浮かべる。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑨(佐賀に“三平”あり)〕
そして平野は、福岡の支藩・秋月藩の海賀宮門、久留米の神官・真木和泉(保臣)などとつながる。
筑前・筑後の勤王志士たちは、いささか復古主義的な傾向はあるが、気概に満ちあふれており、京の都でも活動していた。
――彼らが是非とも賛同を得たかったのが、佐賀の枝吉神陽。
藩内では幕府寄りの保守派が有力だが、佐賀への期待の高さゆえに訪れる志士は後を絶たない。
「大木さん、後を頼んだ。」
もはや決意は語り尽くした。力強く立ち上がる、江藤。
「任せておけ。なか…」
江藤を見送る際、つい「中野にもよろしくな」と言葉を発しそうになった大木。
いや、いま確かに親友の気配を感じた。独りになって大木は言い直した。
「中野…、江藤を守ってやってくれ。頼むぞ。」

――江藤は大木家を出て、佐賀城下をゆく。
眼前に現れたのは“義祭同盟”を率いる師匠の枝吉神陽。風格のある立ち姿は変わらず、その大きい眼に見つめられると隠し事ができない感覚にもなる。
さすがの江藤も、脱藩の決意を固めたところ。しばし言葉に詰まった。向き合うだけで、気後れを感じる。
「神陽先生。」
佐賀を出る計画を語るべきか。いや、仔細(しさい)を語れば、藩内での立場もある師匠に迷惑をかける。
――通りを挟んで、江藤と正対する枝吉神陽。
神陽は、中野方蔵の師匠でもあったが、ここでその話を交わす事もなかった。しばらくの間があって、神陽は「うむ」とばかりに大きく頷(うなず)く。
厳しく学問を仕込んだ弟子・江藤新平の表情に覚悟を感じ取り、沈黙をもって応えるようだ。
かっと見開いた神陽のまなじりは「行け」と、江藤の進む方角へと向けられた。また、江藤も黙して一礼し、師匠の前を退出した。
――それから数週間が過ぎた。六月の下旬。三瀬の街道沿い。
夏の青葉さえ色を持たない、まだ夜も明けぬ刻。山中の小道には、強い草木の香りが漂う。さらに暗い脇道にガサガサ…っと木々を揺らす人影があった。
「そこに居る者は、誰か!」
矢でも射るかのように、ピーンと張り詰めた声が通る。
その人影は、ビリビリっと軽く震えたように見えた。
「…驚かすな。その声は江藤か…。おいだ。古賀だよ。」
「古賀さん。何ゆえ、こがん所に居るのか。」
「そいは、こちらが聞きたか事ばい。」

――三瀬の番所で役人を務める、古賀一平。
「…神陽先生は仔細(しさい)を教えてくれんばってん、肝を冷やしたばい。」
江藤の鋭い声に、よほど驚いたか。古賀の“佐賀ことば”が、いつもより強い。
「それに“隠密”行動のわりに、声の太かぞ…。まぁ、気を付けんね。」
古賀はゴニョゴニョと小声で続けたが、万一にも、人に聞かれては危うい内容と気付き、言葉を濁した。
そして江藤の目前では、こっそりと「あちらの山道に回れ。いま柵は無かぞ」と抜け道を指で示している。
「道案内たい…、正面から通られては、おいも都合の悪か。」
ここは、古賀はさらに声を抑えてつぶやいた。
――「気をつけて、家に帰らんね。」
はっきり口にしたのは、誰に聞かせるでもない、わざとらしい古賀一平の見送りの言葉。もちろん江藤の行く先は、佐賀城下へと戻る道ではない。
「心得た。」
そう答えた江藤。一旦は、佐賀の街に帰るかのように、古賀に背を向けた。実際はわずかに迂回するや、草木の茂る小道へと歩みを転ずる。

――このまま三瀬の山道を越えて、郷里・佐賀を後にするのだ。
佐賀では脱藩は厳罰の対象だ。無事に戻れるかも定かではない。“三瀬街道の番人”古賀一平が、密かに指し示す方向に歩みを進める江藤。
古賀は、江藤の後ろ姿を一目見ようとした。その時には、夜明け前の群青に紛れ、その影は見当たらなかった。
「あん男…、足取りの早かごた。」
わずかに色を見せ始めた緑の木々を撫でるように、一陣の風が吹いた。
(第18話「京都見聞」に続く)
思い入れの強かった“本編”第17話を今回の投稿で、ひとまず書き終えます。親友・中野方蔵が世を去ったことで、佐賀から出る決意を固めた江藤新平。
中野から「兄さん」とも慕われた大木喬任(民平)から資金を借り受け、旅立つ準備を進めます。江藤が佐賀を発ったのは文久二年(1862年)六月。
その前年あたりは、江藤らの師匠・枝吉神陽への面会を求めて、九州北部の各地から志士たちが佐賀に来訪した時期でした。
――“幕府寄り”と見られていた肥前佐賀藩。
朝廷に関わる諸藩の動向について情報が不足する。それを徹底して集めねばならない。江藤は大木に「京の都にて形勢を探る」と脱藩の目的を説明した。
「中野からの文(ふみ)に名があった者に、当たるつもりだ。」
「まずは長州の…、久坂という者か。」
長州(山口)の俊才・久坂玄瑞の名が出る。中野方蔵が送った、江戸からの手紙に度々登場した人物だ。
「久坂どのが、京に居るかはわからぬが、長州には当たらねばなるまい。」
根拠は無いが、次第に自信に満ちあふれた表情となる大木・江藤の二人。

――まるで、傍で親友・中野方蔵が笑っていた青春の日々のようだ。
「では、他国の“有為の者”たちとは、どうつなぎを取る。」
「佐賀を抜ければ、福岡を通る。それゆえ平野さまも尋ねてみるつもりだ。」
江藤は前年の秋、佐賀に来訪した福岡脱藩・平野国臣を話題にした。勤王家として知られた平野は、九州諸藩の志士たちの力を集めようとしていた。
二人は鎌倉期のような時代がかった装束で熱く語る“福岡のさぶらい”・平野を想い出し、少し愉快そうな表情を浮かべる。
〔参照:
そして平野は、福岡の支藩・秋月藩の海賀宮門、久留米の神官・真木和泉(保臣)などとつながる。
筑前・筑後の勤王志士たちは、いささか復古主義的な傾向はあるが、気概に満ちあふれており、京の都でも活動していた。
――彼らが是非とも賛同を得たかったのが、佐賀の枝吉神陽。
藩内では幕府寄りの保守派が有力だが、佐賀への期待の高さゆえに訪れる志士は後を絶たない。
「大木さん、後を頼んだ。」
もはや決意は語り尽くした。力強く立ち上がる、江藤。
「任せておけ。なか…」
江藤を見送る際、つい「中野にもよろしくな」と言葉を発しそうになった大木。
いや、いま確かに親友の気配を感じた。独りになって大木は言い直した。
「中野…、江藤を守ってやってくれ。頼むぞ。」

――江藤は大木家を出て、佐賀城下をゆく。
眼前に現れたのは“義祭同盟”を率いる師匠の枝吉神陽。風格のある立ち姿は変わらず、その大きい眼に見つめられると隠し事ができない感覚にもなる。
さすがの江藤も、脱藩の決意を固めたところ。しばし言葉に詰まった。向き合うだけで、気後れを感じる。
「神陽先生。」
佐賀を出る計画を語るべきか。いや、仔細(しさい)を語れば、藩内での立場もある師匠に迷惑をかける。
――通りを挟んで、江藤と正対する枝吉神陽。
神陽は、中野方蔵の師匠でもあったが、ここでその話を交わす事もなかった。しばらくの間があって、神陽は「うむ」とばかりに大きく頷(うなず)く。
厳しく学問を仕込んだ弟子・江藤新平の表情に覚悟を感じ取り、沈黙をもって応えるようだ。
かっと見開いた神陽のまなじりは「行け」と、江藤の進む方角へと向けられた。また、江藤も黙して一礼し、師匠の前を退出した。
――それから数週間が過ぎた。六月の下旬。三瀬の街道沿い。
夏の青葉さえ色を持たない、まだ夜も明けぬ刻。山中の小道には、強い草木の香りが漂う。さらに暗い脇道にガサガサ…っと木々を揺らす人影があった。
「そこに居る者は、誰か!」
矢でも射るかのように、ピーンと張り詰めた声が通る。
その人影は、ビリビリっと軽く震えたように見えた。
「…驚かすな。その声は江藤か…。おいだ。古賀だよ。」
「古賀さん。何ゆえ、こがん所に居るのか。」
「そいは、こちらが聞きたか事ばい。」
――三瀬の番所で役人を務める、古賀一平。
「…神陽先生は仔細(しさい)を教えてくれんばってん、肝を冷やしたばい。」
江藤の鋭い声に、よほど驚いたか。古賀の“佐賀ことば”が、いつもより強い。
「それに“隠密”行動のわりに、声の太かぞ…。まぁ、気を付けんね。」
古賀はゴニョゴニョと小声で続けたが、万一にも、人に聞かれては危うい内容と気付き、言葉を濁した。
そして江藤の目前では、こっそりと「あちらの山道に回れ。いま柵は無かぞ」と抜け道を指で示している。
「道案内たい…、正面から通られては、おいも都合の悪か。」
ここは、古賀はさらに声を抑えてつぶやいた。
――「気をつけて、家に帰らんね。」
はっきり口にしたのは、誰に聞かせるでもない、わざとらしい古賀一平の見送りの言葉。もちろん江藤の行く先は、佐賀城下へと戻る道ではない。
「心得た。」
そう答えた江藤。一旦は、佐賀の街に帰るかのように、古賀に背を向けた。実際はわずかに迂回するや、草木の茂る小道へと歩みを転ずる。
――このまま三瀬の山道を越えて、郷里・佐賀を後にするのだ。
佐賀では脱藩は厳罰の対象だ。無事に戻れるかも定かではない。“三瀬街道の番人”古賀一平が、密かに指し示す方向に歩みを進める江藤。
古賀は、江藤の後ろ姿を一目見ようとした。その時には、夜明け前の群青に紛れ、その影は見当たらなかった。
「あん男…、足取りの早かごた。」
わずかに色を見せ始めた緑の木々を撫でるように、一陣の風が吹いた。
(第18話「京都見聞」に続く)