2025年01月09日
「シリーズ・増える“賢人”の謎(②佐賀の八賢人)」
今から半世紀ほど前。どこからともなく語られ出した…という「佐賀の七賢人」という言葉。
おそらく十数年前。私は人数が1名多い、「八賢人」という呼称を確認しました。今回は、7名→8名に増えた、その顛末を追います。
――幕末・明治期に近代日本の礎を築く…
実務家や技術者が多いものだから、手がけた仕事の凄さが一般的には伝わりづらく、“映え”や“受け”がいまいちの「佐賀の賢人たち」。
混乱の極みだった、幕末から明治への移行期。西洋の学問にも通じ、仕事を捌ける人間がある程度はいなければ、近代国家は成り立たなかったでしょう。

佐賀藩は江戸時代も、お隣の長崎を通じて、西洋の文物も取り込んでいますから、“洋学通”としては、年季が入っています。
――戊辰戦争の始まり(鳥羽伏見の戦い)の際には
幕府を倒すために参戦するどころか、現地にいなかった佐賀藩。それ以前に徳川政権の近代化には、数十年前から協力的だった経過もあります。
海外を意識するためか、佐賀藩の思考としては、隙を生じる国内の戦を嫌い、倒幕には消極的。一方で、内戦の早期終結にはかなり貢献しています。
…とはいえ、本来なら参戦が遅れたことで、冷遇されるはずの佐賀藩出身者。
――佐賀藩士たちは自らの能力で、
新政府の中枢へと入ることになり、明治初期には、前回の「佐賀の七賢人」のうち四名が卿(大臣)に就任しています。
司法卿(法律)…江藤新平
大蔵卿(財務)…大隈重信
外務卿(外交)…副島種臣
文部卿(教育)…大木喬任

※2019年の「第2回さが維新まつり」より(当時の『佐賀の八賢人おもてなし隊』のメンバーの皆様)
――そうそう、なぜ「七賢人」が「八賢人」に増えたかの話でした。
この4人の師匠(先生)は、同一人物なのです。それが「七賢人」に彼らの先生も、加えるべきという話になったのでしょう。
その人物とは、佐賀藩の国学者・枝吉神陽。
――ところで、幕末期の“先生”として、最も有名なのは、
おそらく長州(山口県)の吉田松陰でしょう。その松陰先生が若き日に全国を回ったこと自体は、幾度か大河ドラマでも描写があったと思います。
その諸国修行中に、山口県に近い九州にも来ており、佐賀に立ち寄ったときには、枝吉神陽と会ったこともあるようです。
――その後、吉田松陰は友人宛ての手紙に、
「枝吉神陽は“奇男子”なり」とか、「必ずお会いなさるべき」とか記したそう。

若き松陰が「九州に行くなら、すごい人がいるから必ず会うべきだ!」と伝えたわけですから、神陽が持っていたオーラというか、カリスマ性を感じます。
――幕末期の佐賀藩は、さらに“西洋かぶれ”が強めでしたから、
神陽先生は、佐賀城下で“義祭同盟”という結社を主宰しますが、国学者がリーダーなのに、あわせて洋学(蘭学)も学んでいた弟子が多いのが特徴です。
また、神陽の門下生には“破天荒の大事業”とも称される東京~長崎間での電信開通を成し遂げた、石丸安世など技術分野で活躍した人も見かけます。
和洋・文理に通じる、実践的な学問の仕方を教えていたのでしょう。
――ここまでの先生ならば、最初から「八賢人」では?
「佐賀の七賢人」が語られ始めた時、おそらくは、明治期まで存命だった人物を基準にした、と推測しています。
佐賀の志士たちにとって偉大な師匠だった、枝吉神陽。残念なことに、明治の新時代をその目で見ることはなかったのです。
その最期は、妻の看病をしたところ、同じ病に倒れたものでした。当時、猛威をふるった伝染病・コレラです。

――ただ、神陽先生の後ろ姿は、最後までカッコ良かったようで。
妻が先立ってから、夫・神陽が亡くなるまでが2日間といいますが、旅立つまでに残された時間で、亡き妻を埋葬してから世を去ったと聞きます。
この責任感に高い人格と、深い愛情が思われるのですね。
門下生たち(とくに実弟の副島種臣)には中途半端を許さない、厳しい師匠でもありましたが、お年寄りにも子どもにも優しかったという、枝吉神陽。
個人的には「佐賀の七賢人」を知ってから、「実は、八賢人だった!」という語り方が好みです。
○参考記事〔本編での描き方〕
第19話「閑叟上洛」⑦(愛する者へ、最後の講義)
おそらく十数年前。私は人数が1名多い、「八賢人」という呼称を確認しました。今回は、7名→8名に増えた、その顛末を追います。
――幕末・明治期に近代日本の礎を築く…
実務家や技術者が多いものだから、手がけた仕事の凄さが一般的には伝わりづらく、“映え”や“受け”がいまいちの「佐賀の賢人たち」。
混乱の極みだった、幕末から明治への移行期。西洋の学問にも通じ、仕事を捌ける人間がある程度はいなければ、近代国家は成り立たなかったでしょう。

佐賀藩は江戸時代も、お隣の長崎を通じて、西洋の文物も取り込んでいますから、“洋学通”としては、年季が入っています。
――戊辰戦争の始まり(鳥羽伏見の戦い)の際には
幕府を倒すために参戦するどころか、現地にいなかった佐賀藩。それ以前に徳川政権の近代化には、数十年前から協力的だった経過もあります。
海外を意識するためか、佐賀藩の思考としては、隙を生じる国内の戦を嫌い、倒幕には消極的。一方で、内戦の早期終結にはかなり貢献しています。
…とはいえ、本来なら参戦が遅れたことで、冷遇されるはずの佐賀藩出身者。
――佐賀藩士たちは自らの能力で、
新政府の中枢へと入ることになり、明治初期には、前回の「佐賀の七賢人」のうち四名が卿(大臣)に就任しています。
司法卿(法律)…江藤新平
大蔵卿(財務)…大隈重信
外務卿(外交)…副島種臣
文部卿(教育)…大木喬任
※2019年の「第2回さが維新まつり」より(当時の『佐賀の八賢人おもてなし隊』のメンバーの皆様)
――そうそう、なぜ「七賢人」が「八賢人」に増えたかの話でした。
この4人の師匠(先生)は、同一人物なのです。それが「七賢人」に彼らの先生も、加えるべきという話になったのでしょう。
その人物とは、佐賀藩の国学者・枝吉神陽。
――ところで、幕末期の“先生”として、最も有名なのは、
おそらく長州(山口県)の吉田松陰でしょう。その松陰先生が若き日に全国を回ったこと自体は、幾度か大河ドラマでも描写があったと思います。
その諸国修行中に、山口県に近い九州にも来ており、佐賀に立ち寄ったときには、枝吉神陽と会ったこともあるようです。
――その後、吉田松陰は友人宛ての手紙に、
「枝吉神陽は“奇男子”なり」とか、「必ずお会いなさるべき」とか記したそう。

若き松陰が「九州に行くなら、すごい人がいるから必ず会うべきだ!」と伝えたわけですから、神陽が持っていたオーラというか、カリスマ性を感じます。
――幕末期の佐賀藩は、さらに“西洋かぶれ”が強めでしたから、
神陽先生は、佐賀城下で“義祭同盟”という結社を主宰しますが、国学者がリーダーなのに、あわせて洋学(蘭学)も学んでいた弟子が多いのが特徴です。
また、神陽の門下生には“破天荒の大事業”とも称される東京~長崎間での電信開通を成し遂げた、石丸安世など技術分野で活躍した人も見かけます。
和洋・文理に通じる、実践的な学問の仕方を教えていたのでしょう。
――ここまでの先生ならば、最初から「八賢人」では?
「佐賀の七賢人」が語られ始めた時、おそらくは、明治期まで存命だった人物を基準にした、と推測しています。
佐賀の志士たちにとって偉大な師匠だった、枝吉神陽。残念なことに、明治の新時代をその目で見ることはなかったのです。
その最期は、妻の看病をしたところ、同じ病に倒れたものでした。当時、猛威をふるった伝染病・コレラです。
――ただ、神陽先生の後ろ姿は、最後までカッコ良かったようで。
妻が先立ってから、夫・神陽が亡くなるまでが2日間といいますが、旅立つまでに残された時間で、亡き妻を埋葬してから世を去ったと聞きます。
この責任感に高い人格と、深い愛情が思われるのですね。
門下生たち(とくに実弟の副島種臣)には中途半端を許さない、厳しい師匠でもありましたが、お年寄りにも子どもにも優しかったという、枝吉神陽。
個人的には「佐賀の七賢人」を知ってから、「実は、八賢人だった!」という語り方が好みです。
○参考記事〔本編での描き方〕
Posted by SR at 22:53 | Comments(0) | 戦略編(S)
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