2021年08月04日
第16話「攘夷沸騰」⑥(積年の胃痛にて…)
こんばんは。
“鉄腕”と称され実行力には評価のあった大老・井伊直弼。知識に優れた人材は居ても、統率力のあるリーダーを失ったことで幕府内では迷走が始まります。
…幕末の黎明期、技術開発や外交政策で幕府に協力し、目立って力を発揮した佐賀藩。次第に幕閣から距離を取るようになっていく時期です。
――江戸。“厳戒態勢”の佐賀藩邸。
今日も屋敷内では、警備の剣士たちが目を光らせている。
そして、その日も江戸城からの遣いは来る。
「鍋島肥前守は、まだ御城に参じないのか…?」
「あいにく“胃の腑(ふ)”に強い痛みあり、それも引かず…他にも…」
登城を催促する幕府からの使者。江戸詰めの側近が殿様の不調を伝える。
――その頃。殿・鍋島直正は、ある家来と会っていた。
「佐野よ…、ひとまず“観光丸”は任せたぞ。」
座ったまま、そう語る佐賀の殿様。何だか前かがみで姿勢が悪い。
「馴染みのある蒸気船にございます。お任せくださいませ。」
力強く返答する佐野常民(栄寿)。時おり述べるが、正式な名は“栄寿左衛門”。
いまの佐野は、医者時代の丸坊主ではない。しっかり髷(まげ)を結う侍の姿。
「…して、殿。お加減は、如何(いかが)なのでございますか?」
かつてオランダ医学を修練した佐野。ほぼ“患者”に見える殿様への問診だ。

――その殿様が、引きつった笑みを浮かべて応える。
「良からず。“胃の腑”のみならず、あちこちが痛む…」
「殿…笑い事ではございませぬ。養生をなさらねば!」
佐野が、急に医者の顔になって語気を強める。“消化器系”の不調の様子だ。
…1か月ほど前。突然の“凶事”により井伊大老と進めていた、天草(熊本)への佐賀藩の海軍基地の計画は消滅した。
外洋を守る海防政策について、幕府での理解者を失ったうえに、逆に幕閣たちからは「混乱の収拾に力を貸せ」と矢の催促である。
殿・直正の失望は大きかった。佐賀を雄藩へと導く中で積年の無理は重なり、以前から主に胃痛などの体調不良に陥っていた。
――側近・古川与一(松根)も、佐野の言葉を聞いていた。
「殿、佐野の申す通りでござる。一度、国元にお戻りになってご養生を。」
「いかにも。佐賀にお戻りになられませ。」
周りの側近たちも声を揃える。“幕府がすごく催促してくるし、混乱に巻き込まれては面倒だ…”という本音が見える者もいる。
「…そうか。そうやも知れぬな。」
殿・直正も、“では、佐賀に帰ってしまうか”という表情を見せた。長崎警護の重責を抱える佐賀藩には、殿様は江戸への滞在が短期で済む特例がある。
――屋敷内。剣士たちの引率役・中野数馬が、また声を張る。
「皆、よく聞け。殿はこれより国元にお帰りになる。」
…剣士たちが、神妙な面持ちで聞き入る。
「わかっていると思うが、ここからがお主らの働くべきところだ。」
「はっ!」
幾人かの声が重なる。すでに腕をまくって、気合十分の者までいるようだ。
一刻も早く、殿を江戸より退避させる。こんな時の佐賀藩の対応は迅速である。鍋島直正の影響力に期待していた、幕府の閣僚たちは唖然とした。
――こうして帰路の警護につく、佐賀の剣士たち。
今度は東海道を西へ。剣士たちとしては、来た道は走りだったが、戻りは襲撃を警戒しながら…というところが大きな違いだ。
京の都を西に過ぎ兵庫の港に至ると、すでに佐賀藩が蒸気船を待たせている。

「ここまで来れば、ひと安心でございますな。」
何より、殿の無事が一番。側近・古川は、柔和な笑みを浮かべた。
「お貢(姫)も我が身を案じておるかもしれぬ。文(ふみ)でも書くとするか。」
不穏となった江戸を離れたが、川越藩(埼玉)に嫁ぎ、佐賀藩邸の近隣にいる愛娘・貢姫とは遠くなってしまう。
ひとまずは、娘に無事を知らせる手紙を思い立つ、佐賀の殿様だった。
(続く)
“鉄腕”と称され実行力には評価のあった大老・井伊直弼。知識に優れた人材は居ても、統率力のあるリーダーを失ったことで幕府内では迷走が始まります。
…幕末の黎明期、技術開発や外交政策で幕府に協力し、目立って力を発揮した佐賀藩。次第に幕閣から距離を取るようになっていく時期です。
――江戸。“厳戒態勢”の佐賀藩邸。
今日も屋敷内では、警備の剣士たちが目を光らせている。
そして、その日も江戸城からの遣いは来る。
「鍋島肥前守は、まだ御城に参じないのか…?」
「あいにく“胃の腑(ふ)”に強い痛みあり、それも引かず…他にも…」
登城を催促する幕府からの使者。江戸詰めの側近が殿様の不調を伝える。
――その頃。殿・鍋島直正は、ある家来と会っていた。
「佐野よ…、ひとまず“観光丸”は任せたぞ。」
座ったまま、そう語る佐賀の殿様。何だか前かがみで姿勢が悪い。
「馴染みのある蒸気船にございます。お任せくださいませ。」
力強く返答する佐野常民(栄寿)。時おり述べるが、正式な名は“栄寿左衛門”。
いまの佐野は、医者時代の丸坊主ではない。しっかり髷(まげ)を結う侍の姿。
「…して、殿。お加減は、如何(いかが)なのでございますか?」
かつてオランダ医学を修練した佐野。ほぼ“患者”に見える殿様への問診だ。

――その殿様が、引きつった笑みを浮かべて応える。
「良からず。“胃の腑”のみならず、あちこちが痛む…」
「殿…笑い事ではございませぬ。養生をなさらねば!」
佐野が、急に医者の顔になって語気を強める。“消化器系”の不調の様子だ。
…1か月ほど前。突然の“凶事”により井伊大老と進めていた、天草(熊本)への佐賀藩の海軍基地の計画は消滅した。
外洋を守る海防政策について、幕府での理解者を失ったうえに、逆に幕閣たちからは「混乱の収拾に力を貸せ」と矢の催促である。
殿・直正の失望は大きかった。佐賀を雄藩へと導く中で積年の無理は重なり、以前から主に胃痛などの体調不良に陥っていた。
――側近・古川与一(松根)も、佐野の言葉を聞いていた。
「殿、佐野の申す通りでござる。一度、国元にお戻りになってご養生を。」
「いかにも。佐賀にお戻りになられませ。」
周りの側近たちも声を揃える。“幕府がすごく催促してくるし、混乱に巻き込まれては面倒だ…”という本音が見える者もいる。
「…そうか。そうやも知れぬな。」
殿・直正も、“では、佐賀に帰ってしまうか”という表情を見せた。長崎警護の重責を抱える佐賀藩には、殿様は江戸への滞在が短期で済む特例がある。
――屋敷内。剣士たちの引率役・中野数馬が、また声を張る。
「皆、よく聞け。殿はこれより国元にお帰りになる。」
…剣士たちが、神妙な面持ちで聞き入る。
「わかっていると思うが、ここからがお主らの働くべきところだ。」
「はっ!」
幾人かの声が重なる。すでに腕をまくって、気合十分の者までいるようだ。
一刻も早く、殿を江戸より退避させる。こんな時の佐賀藩の対応は迅速である。鍋島直正の影響力に期待していた、幕府の閣僚たちは唖然とした。
――こうして帰路の警護につく、佐賀の剣士たち。
今度は東海道を西へ。剣士たちとしては、来た道は走りだったが、戻りは襲撃を警戒しながら…というところが大きな違いだ。
京の都を西に過ぎ兵庫の港に至ると、すでに佐賀藩が蒸気船を待たせている。
「ここまで来れば、ひと安心でございますな。」
何より、殿の無事が一番。側近・古川は、柔和な笑みを浮かべた。
「お貢(姫)も我が身を案じておるかもしれぬ。文(ふみ)でも書くとするか。」
不穏となった江戸を離れたが、川越藩(埼玉)に嫁ぎ、佐賀藩邸の近隣にいる愛娘・貢姫とは遠くなってしまう。
ひとまずは、娘に無事を知らせる手紙を思い立つ、佐賀の殿様だった。
(続く)
Posted by SR at 22:38 | Comments(0) | 第16話「攘夷沸騰」
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