2025年01月18日

「シリーズ・増える“賢人”の謎(③佐賀の九賢人)」

前回は「佐賀の七賢人」が、1名多く「八賢人」とも呼ばれることを語りました。

佐賀城本丸歴史館で、日曜に演じられる寸劇は『佐賀の八賢人おもてなし隊』という団体の活動によるもので、私も帰省できた時期はよく観に行きました。

公演は3名(三賢人)で、1つの物語を演じる構成が基本のため、“先生”である8人目・枝吉神陽の存在で、ストーリーが成り立っている演目も多いようです。

〔参考のリンク先〕「幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊」について
※当ブログは団体の活動とは無関係ですが、個人的には影響も受けており、影ながら応援もしています
「シリーズ・増える“賢人”の謎(③佐賀の九賢人)」
――さらに、数の上積みが続く「佐賀の賢人」の話。

今回は九賢人へと話が展開します。幕末明治期の佐賀偉人は、政治家・官僚として活躍した、お殿様や志士たちだけではありません。

幕末期に西洋医学の導入でもトップクラスだった、佐賀藩明治期の医学にも、強い影響を与えています。

佐賀からは明治期に、日本の医学がドイツに倣って進化した、きっかけを作った人物も出ています。その名は、相良知安

昔、病院に行っては、お医者さんが何やらグシャグシャした文字を「カルテ」と呼ばれる書面に記していたことを思い起こします。

この「カルテ」という呼称も、そこに書いていた「ドイツ語」も、きっと、この佐賀医学者の影響だったのですね。

――幕末・明治期の医学者、相良知安で9人目(九賢人)。

幼少期には江藤新平の近所に住んでいたとか、一時期は大隈重信と家が隣だったとか、『佐賀の七賢人』との関係も見え隠れします。

現在で言えば佐賀市内の中心近くに、結構すごい人たちが揃った幕末期。

おそらく県外ではあまり知られていない、相良知安ですが、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)の初代校長という情報もあります。

――これが明治5年(1872年)のことだそうですが、

その東京大学医学部の源流は、少し先輩の世代・伊東玄朴(神埼市出身)が幕末の安政5年(1858年)に、江戸の神田に設立した種痘所だといいます。
「シリーズ・増える“賢人”の謎(③佐賀の九賢人)」
写真は、佐賀のお殿様・鍋島直正公が、我が子に種痘を行うのを見守る図ですが、当時の佐賀藩は、相当に医学のレベルも高かったことが窺えます。

さて、お話が幕末・明治期の「佐賀九賢人」まで進みましたが、皆様の中には「12賢人」という呼称を聞いたことがある方もいるのではないでしょうか。

但し、ここからは、少し様子が違ってきます。次に出て来る名は、幕末・明治期の人物ではありません。随分と時代を遡っていきます。




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Posted by SR at 23:40 | Comments(0) | 戦略編(S)
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