2024年08月04日
「滑込の剣」(9)クールなジャパンも見つけたり
暑中お見舞い申し上げます。全国的に酷暑が続きますが、今年は特に佐賀の気温が高めですね。皆様も、ご自愛くださいませ。
今回も5月上旬の“帰藩”の話を綴りますが、少し視点が変わり、県庁の中で見つけた、明治期の「クールジャパン(※)」を語ります。
※優れた日本文化を「かっこいい」ものとして、海外に普及させる取り組み。
――県庁ロビーで、例によって“銅像との対話”をしていた私。
ふと目を向けると、さらに強く、佐賀県庁が推すと思われる展示物が見えた。
明治初期、銅像として偉業が伝えられる“佐賀の七賢人”たちが生きた時代。
佐賀の産業面にも“エース”とも言うべき存在があった。それが有田地区で製作された、陶磁器だと考えている。

――私は陶磁器に関して、ほとんど無知である。
また、アートとして語れるだけの審美眼もない。
「おいには、そがん器用さのなかもんね~」と、先に宣言しておく。
ところで、江戸期に主に幕府に対して、必勝の献上(贈答)品を造るべく佐賀藩が秘密の製作拠点としたのが伊万里。
明治期に、日本で蓄積された陶磁器の事業で、海外展開を進めたのが有田。イメージだけで語ることが許されるなら、私のいまの理解はこんなものだ。
――これは、“クールジャパン”の先駆けではないか。
…とはいえ、全然知識の無い私は、こういう時は説明書きに目を凝らすのだ。
「色絵花鳥図大花瓶…」読み方がたどたどしくなりそうだが、すごく異様を放っている大きな花瓶である。
明治期に有田で製作されたものらしい。その高さは、私の背丈をゆうに超えるので、当然見上げる形になるが、219㎝もあるという。

19世紀後半に、欧米各地で盛んに開催された万国博覧会では、日本を代表する展示物だったとある。
「日本の洗練された美を示し、世界に影響を与えた」と語ることもできるだろう。
そして「博覧会と言えば、佐野常民…」。もちろん「クールジャパン」という言葉のない明治時代から、佐野は日本美術の保護・活用に努めていた。
私の思考回路だと、だいたい、こういう結論になってしまうのだ。
今回も5月上旬の“帰藩”の話を綴りますが、少し視点が変わり、県庁の中で見つけた、明治期の「クールジャパン(※)」を語ります。
※優れた日本文化を「かっこいい」ものとして、海外に普及させる取り組み。
――県庁ロビーで、例によって“銅像との対話”をしていた私。
ふと目を向けると、さらに強く、佐賀県庁が推すと思われる展示物が見えた。
明治初期、銅像として偉業が伝えられる“佐賀の七賢人”たちが生きた時代。
佐賀の産業面にも“エース”とも言うべき存在があった。それが有田地区で製作された、陶磁器だと考えている。
――私は陶磁器に関して、ほとんど無知である。
また、アートとして語れるだけの審美眼もない。
「おいには、そがん器用さのなかもんね~」と、先に宣言しておく。
ところで、江戸期に主に幕府に対して、必勝の献上(贈答)品を造るべく佐賀藩が秘密の製作拠点としたのが伊万里。
明治期に、日本で蓄積された陶磁器の事業で、海外展開を進めたのが有田。イメージだけで語ることが許されるなら、私のいまの理解はこんなものだ。
――これは、“クールジャパン”の先駆けではないか。
…とはいえ、全然知識の無い私は、こういう時は説明書きに目を凝らすのだ。
「色絵花鳥図大花瓶…」読み方がたどたどしくなりそうだが、すごく異様を放っている大きな花瓶である。
明治期に有田で製作されたものらしい。その高さは、私の背丈をゆうに超えるので、当然見上げる形になるが、219㎝もあるという。
19世紀後半に、欧米各地で盛んに開催された万国博覧会では、日本を代表する展示物だったとある。
「日本の洗練された美を示し、世界に影響を与えた」と語ることもできるだろう。
そして「博覧会と言えば、佐野常民…」。もちろん「クールジャパン」という言葉のない明治時代から、佐野は日本美術の保護・活用に努めていた。
私の思考回路だと、だいたい、こういう結論になってしまうのだ。
Posted by SR at 21:41 | Comments(0) | 佐賀への道
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