2024年08月26日
「滑込の剣」(12)扉の先に、待っていたもの
前回は“帰藩”時、恒例の「殿様へのご挨拶」でしたが、今年5月に佐賀まで、私が“滑り込んだ”理由は、この先の本丸歴史館にありました。
幕末の佐賀藩が、明治の新時代に送り出した“稀才”・江藤新平を特集する企画展。そこで、私を待ち受けていたものは…
――「いざ、本丸へ。」
20年ほども前になるか、かろうじて、現存する「鯱の門」をくぐれば、佐賀城の本丸には「何(なん)もなか」空間がひろがっていた。
ところどころ草むらがある、平たい場所でも、周囲に石垣は残るので、天守台に登って写真を撮ってみたりもしたが、今ひとつ盛り上がりには欠けたものだ。

――でも、今は本丸御殿がある。
佐賀県に生まれたものの、長らく県民ではない歳月を経た、私があえて言う。「ここには、“私たち”のお城がある」と。やはり、建物の存在感は大きい。
だが、現在からおよそ150年前、この場所で「新政府の出兵に伴う武力衝突」が起きている。いわゆる「佐賀の役」だ。日本を幕末から近代へと導いた、かつての佐賀藩の本拠地は、立派な門だけを残して、その姿を消したのだ。
――近年では「佐賀戦争」という呼称も有力となっている。
今まで“佐賀の乱”と語られてきたが、当時は“反乱”というより、発端は「騒動」や「事件」と捉えられたらしい。時系列からは「応戦」したという解釈もできる。
まず、不名誉な“反乱”扱いは解消せねばならないが、無念な経過をたどった出来事に違いはなく、それを乗り越える答えは、自分で掴み取るほかはない。

「ここから私は、真の佐賀への扉を開く。」
そのぐらい勢い込んで、本丸御殿へと入った私。
「こんにちは。」
不意に声をかけられた。いや、入館者に挨拶をするのは、普通の対応だ。私の意気込みが強すぎて、横に人がいるのにも気付かなかった。
そこで向かい合ったのは、歴史館の人(ボランティアスタッフの方)だった。
幕末の佐賀藩が、明治の新時代に送り出した“稀才”・江藤新平を特集する企画展。そこで、私を待ち受けていたものは…
――「いざ、本丸へ。」
20年ほども前になるか、かろうじて、現存する「鯱の門」をくぐれば、佐賀城の本丸には「何(なん)もなか」空間がひろがっていた。
ところどころ草むらがある、平たい場所でも、周囲に石垣は残るので、天守台に登って写真を撮ってみたりもしたが、今ひとつ盛り上がりには欠けたものだ。
――でも、今は本丸御殿がある。
佐賀県に生まれたものの、長らく県民ではない歳月を経た、私があえて言う。「ここには、“私たち”のお城がある」と。やはり、建物の存在感は大きい。
だが、現在からおよそ150年前、この場所で「新政府の出兵に伴う武力衝突」が起きている。いわゆる「佐賀の役」だ。日本を幕末から近代へと導いた、かつての佐賀藩の本拠地は、立派な門だけを残して、その姿を消したのだ。
――近年では「佐賀戦争」という呼称も有力となっている。
今まで“佐賀の乱”と語られてきたが、当時は“反乱”というより、発端は「騒動」や「事件」と捉えられたらしい。時系列からは「応戦」したという解釈もできる。
まず、不名誉な“反乱”扱いは解消せねばならないが、無念な経過をたどった出来事に違いはなく、それを乗り越える答えは、自分で掴み取るほかはない。
「ここから私は、真の佐賀への扉を開く。」
そのぐらい勢い込んで、本丸御殿へと入った私。
「こんにちは。」
不意に声をかけられた。いや、入館者に挨拶をするのは、普通の対応だ。私の意気込みが強すぎて、横に人がいるのにも気付かなかった。
そこで向かい合ったのは、歴史館の人(ボランティアスタッフの方)だった。