2024年08月18日

「滑込の剣」(11)いつでも、ここにおる

相変わらず、暑いですね。5月の旅を綴っていますが、その記憶を書き起こしているのは、8月のお盆も過ぎた時期です。

この時点でも陽射しはわりと強かったのですが、そのがあたる先には…

――随分と時間を使ったが、ようやく佐賀県庁を出る。

県庁も、かつての佐賀城の敷地内に建っているのだが、本丸御殿を再現した歴史館までは少し距離がある。

木陰は夏とは違って、まだ涼しくあるので、影づたいに真っ直ぐに進んでいく。

同じく城内に位置する“サガテレビ”を目印として、道を曲がると、まもなく本丸の建物が見えてくる。

――「久しいのう。よく、来たな。」

当ブログの特徴で、“佐賀賢人”の銅像を見かけると対話が始まる…のが、通例である。

五月の昼、高くなった陽の光を受けた、その横顔。資料の写真では、よくお見かけしている、第10代佐賀藩主鍋島直正公。
「滑込の剣」(11)いつでも、ここにおる
「はっ、ご尊顔(そんがん)を拝(はい)し奉(たてまつ)り…」
さすがに移動続きで、も疲れてきている。

「…なんだ、お主、“へろへろ”ではないか。」
そうだ、佐賀殿様が仰せのとおり、私はくたびれている。しかし、そんな私だからこそ、聞こえる声もある。

「はっ、“ぼろぼろ”の感じにて参じまして、恐れ入ります。」
相変わらずよのう。」

――佐賀の殿様の御前(ごぜん)である。

きっと、この場所に立ち寄る、現代の“佐賀藩士”も結構いて、何かを成し遂げた、高い地位についた、財産幸福を得た…という勝利の報告も多いだろう。

それは、佐賀出身者にとっては“名誉帰藩”で、いわば「凱旋のご挨拶」をする場所であるのかもしれない。その一方で、は報告すべき成果を上げてはいない。ただ、大都市圏で、冴えているとは言い難い日々を送り、心の中で「佐賀叫ぶ」だけの存在だ。

――「そう、悔いるのは早い。お主は、まだ生きているのだからな。」

幕末期の名君として知られる、鍋島直正公が世を去ってから、すでに150年以上の時が流れている。
「滑込の剣」(11)いつでも、ここにおる
「せっかく佐賀へと戻る時を得たのだ。存分に学んでいくがよい。」
「はっ、そのために駆け込んで参りましたので、それは抜かりなく。」

佐賀の街に来ればご挨拶に立ち寄る。亡くなった方が現世に帰ってくるというお盆でなくとも、幕末名君には会える…という感覚を持っている。

――鍋島直正公は幕末の動乱期に、佐賀の藩政を立て直した。

そして、海外の列強の動きに神経を遣って近代化を進めながら、佐賀藩内で暮らす領民の生活にも心を砕いたという。

もともとは陽気な性格だったと伝わる、鍋島直正公だが、その悩み多き生き方は、胃腸をはじめとして、消化器系の疾患に表れたようだ。

「…殿、今度は胃薬でもお供えしましょうか?」
「うむ、ありがたいが、もはや銅像の身ゆえ、気遣いは無用じゃ。」

この街には、いつでも殿様の姿があって、私とっては、その存在が母港の燈台のように光って見えている。





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Posted by SR at 22:13 | Comments(0) | 佐賀への道
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